ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルとは

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル(Hyde Park Music festival)とは、埼玉県狭山市にある稲荷山公園 で2005年と2006年に行われた野外音楽フェスのことです。

2005年に行われた第1回 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル Photo by Y.TAKAGI

HMFの会場の雰囲気をお伝えします!


かつてハイドパークと呼ばれていた公園

稲荷山公園は、かつて「ハイドパーク」という名称で狭山・入間市民に親しまれていました
アメリカのジョンソン基地のハウジングエリアであり、多くのアメリカ軍人が住んでいました。アメリカそのものの生活と文化がある場所でした。

戦争が終わり高度経済成長期へと向かう中、アメリカ空軍の「ジョンソン基地」跡地だった狭山ハイドパークが、1973年に日本へ返還されました。多様な西洋文化が押し寄せて来て、誰もが海外への憧れを持っていた時代でした。

憧れのアメリカンライフを求めて若者たちが移住

1970年代初頭、アメリカ文化に憧れる若者たちがハイドパーク周辺に移り住みました。
その中には、細野晴臣、小坂忠、麻田浩、洪栄龍、吉田美奈子、はちみつぱいの和田博巳、ムーンライダーズの岡田徹、ラストショーの徳武弘文など、日本のロック・ミュージックの歴史に輝かしい足跡を残したミュージシャンたちや、デザイン工房 WORKSHOP MU!!(眞鍋立彦、中山泰、奥村靫正)などのデザイナーやイラストレーターたちがいました。

「HOSONO HOUSE」などの名作が生まれた場所

ハイドパークやその周辺での生活は、彼らの才能を刺激し、新たな作品を生み出すきっかけとなるような場所でした。そこで生まれた独自の日本語ロックとアートは、今も私たちに影響を与え続けています。

あの時代の音楽と公園を次世代に

当時パイドパーク近隣で生まれ育った子供たちが大人になって、あの時代狭山に住んでいたミュージシャンたちへの敬意と功績を再確認し、その音楽を次世代に繋げていこう、そして緑豊かな公園の木々を守っていこうと、2005年に始めたのがこのフェスのはじまりです。

2005年から17年、伝説のフェスが再開

日本語ロック源流の音楽遺産を次世代に引き継いでいく場所として、このたび17年ぶりに再開することになりました。

今回の開催にあたり、当初の実行委員会のメンバーが寄稿した「企画意図」と中島太意氏の「ハウス文化」についてを改めて読み返しています。当時のスタッフの想いも忘れずに受け継いで行きます。

2022年12月
ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル 実行委員会


HMFの会場の雰囲気をお伝えします!


ハイドパークフェスの成り立ちを知っていただくために、2005年実行委員会メンバーの当時の寄稿文を掲載します。

 すべては「ハウス」にある。1960年代終わりから70年代、髪が長く、ブルージーンズの若者達が16号線沿いの米軍基地周りのハウスを拠点としていた。若者の思考が世の中を大きく変えていっていた。ビートルズ、サイケデリック、ヒッピー、ロック、フォーク、ウッドストック、ミニ、ウーマンリブ、ベトナム、黒テント、ディスコテーク・・・・。にわかにおこった旋風は旧態依然とした既存社会の意識をひっくりかえした。若者の多くはそうしたサブカルチャーを吸い取り紙のように取り入れていった。そう、「ハウス」はそうした彼等の土壌であり、サブカルチャーは水や栄養素だった。そして彼等自体、今や発芽しようとする種そのものだった。東京で6畳4畳半風呂なしの家賃と、50坪に切り妻の典型的家型の「ハウス」の家賃は1万6千円で同じだった。安く、広く、アメリカンなライフスタイルは多くの若者(当時、ヤングと言っていたな)を引き寄せた。絵を描くもの、家具を作るやつ、ただただそんな空気感に浸るやつ、いろんなやつらがハウスに住んだ。そして、音楽家達もいた。

 狭山アメリカ村には麻田浩、洪栄龍、小坂忠&フォージョー・ハーフ(松任谷正隆、林立夫、後藤次利、駒沢裕城)、立花ハジメ、徳武弘文、吉田美奈子、岩淵まこと、和田博巳(はちみつぱい)、岡田徹(ムーンライダーズ)らが住んでいた。また、眞鍋立彦、中山泰、奥村靫正による、デザイン工房・「WORKSHOP MU!!」では大滝詠一の『ナイアガラ・ムーン』、『サディスティック・ミカ・バンド』、細野晴臣の『HOSONO HOUSE』のレコード・ジャケットが製作された。

 同じく、ジョンソン基地周辺。入間のハウスには、故・西岡恭蔵&KURO夫妻、松田幸一、村上律らがいた。「ハウス」「サブカルチャー」、そして「若者達」、それらは渾然一体となってどんどん醗酵して行った。そして、この三位一体の醗酵現象はおおいに現在日本の音楽環境に大きな影響を及ぼしたと言っても過言で無い。まるで、ニューヨークの前衛アートのために、ロフトがあったように、「ハウス」はクリエイティブの基盤だった。

 そして、「ハウス」は単なる住居を与えたばかりでは無く「コミューン」を生み出した。同じような環境の中で、さまざまな若者達がいろいろな事を話し、共同の作業を、それぞれが考えた。それぞれの独自なライフスタイルにおいて、友情と喧嘩、事件や作品が生まれ、そして多くの音楽が生まれた。もう当時のままのオリジナルな「ハウス」は一軒も無いだろう。当時ですら老朽化はなはだしかった「ハウス」をいつの間にか僕らは失ってしまった。多くの若者を育んだ「ハウス」はもうない。
 「ハウス」文化はそうしたライフスタイルを経験したものしか知らない。
 地元の人々にとって「ハウス」は進駐軍の家であり、後にえたいの知れないよそものの住処であった。
 そしていつの間にか朽ち果てた。

 どうでもいいことで、「ハウス」文化など認識のかけらも無い事だろう。
今の若者達はどうしているのだろうか。

 今の若者が自由気ままにクリエイティブできる環境がどこにあるのだろうか。
きちきちとした世界になって、あの頃のゆるやかな自由な空気がない。
 さまざまな事象を初めて自分達が経験し、造り出したという発芽感も今の若者には少なかろう。
もう、あの時代と「ハウス」の環境はふたたびやって来ない。

 二度と起きない幸せなあの頃に生きた僕らは今の若者に伝えねばならない。
 あの頃に貯えた心と文化、そして音楽を。

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル
2005 実行委員会
中島太意(イラストレーター)

 稲荷山公園は、かつてハイドパークという名称で狭山/入間市民に親しまれていました。アメリカ空軍の「ジョンソン基地」跡地だったハイドパークは、1973年に日本に返還され、1976年に一般開放されて以降、今日まで市民の憩の場として愛されてきたのです。

 私たち「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル実行委員会」は、この公園が今も保ち続けている自然は何より素晴らしいものだと考えていす。多くの公園が画一的に管理・整備されていく過程でその歴史や独自性を失っていくことを思えば、稲荷山公園は貴重な、市民にとってかけがえのない財産です。

 稲荷山公園は1960年代末から1970年代初頭にかけて、アメリカの象徴のような場所でもありました。当時の若者たちにとってそこは、公園周辺に数多く建っていた米軍ハウス同様に、“アメリカのイメージ” を直接的に感じられる場所でした。大げさに言えば、ハイドパークはアメリカ文化への「魅惑的なドア」だったのです。

 そのことは、当時、全国各地から多くの若者たちが狭山の「ハウス」に移り住んだことからも明らかです。その中には麻田浩、細野晴臣、小坂忠、洪栄龍、吉田美奈子ら、日本のロック・ミュージックの歴史に輝かしい足跡を残したミュージシャンたちもいました。デザイン工房、ワークショップMU!!(眞鍋立彦、中山泰、奥村靫正)をはじめ、デザイナーやイラストレーターなどポップ・アートの分野で活躍する人たちも少なくありませんでした。

 ハイドパークや米軍ハウスでの生活は、彼らの芸術的な想像力(イマジネーション)や創造力(クリエイティビティ)を刺激し、新しい作品の誕生をうながしました。1960年代後期にアメリカで起こったカウンター・カルチャーの種子の何粒かが、数年後に日本の、それも狭山で芽を出したのです。

 —稲荷山公園で音楽フェスティバルを開こう——。ある日、私たちはそう思い立ちました。そして、その自分たちのアイディアに興奮しました。1970年代にこの地で生まれた音楽がその後の日本の音楽シーンにいかに大きな影響を与えたかということを、あらためてロック・ファンに伝え、またこの公園の貴重な自然を残していくことの意義を訴えたいと思ったのです。

 すぐれた音楽は、世代や時代を超えて受け継がれていきます。実行委員会のメンバーのほとんどは、狭山で生まれ育った者たちです。狭山という街で生まれた音楽や、それと切り離すことのできない稲荷山公園の素晴らしさを、ひとりでも多くの人たちに知ってもらいたい。そして、この公園でみんなで一緒に音楽を楽しみたい——。今もこの街に暮らすロック好きの私たちは、心からそう思っています。

「2005年 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル実行委員会」一同

 11月1日に記者会見を行い、来年の4月29日(土) 30日(日)にハイドパークフェスティバル17年ぶりの復活開催を発表しました。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルに関しては、多くの方から再開を望むメールをいただいたり、地方に行った時にまたやって下さい必ず行きますからと言われたり、僕にとっては常に気持ちのどこかに再開しなければと言う思いがありました。2005年最初の年、小坂忠がステージから降りてきて『麻田さん、最高だよ、これ続けていこうよね』と言ってくれたのが忘れられません。

 しかし、2年目に赤字が出て3回目を開催できず、毎年のように忠の言葉を思い出しつつ今に至っていました。そして今年の4月、その忠が亡くなりました。僕にとってはショックでした。もし再開するなら2005年に最初に出演を承諾してくれた細野君と忠にまた出てもらいたいと思っていたからです。来年こそハイドパークを再開しよう、そしてそこで忠のトリビュートをやろうという気持ちが固まり、細野くんに相談して彼もやろうよと言ってくれました。ただ、細野君は来年自身のアルバム制作が遅れていてそれに専念するという事もあって出演は難しくなってしまったのですが、日本語ロック源流の音楽遺産を次世代に引き継いでいく場所としてこのフェスを再開し続けていきたいと思います。

 恒例のトリビュートは2023年は、小坂忠とポーククルセイダースとして出演してくれた、加藤和彦のトリビュートにしたいと思います。

 またこのフェスは、地元で育ってこの公園を愛する仲間たちと収益を公園に寄付すると言う方針で始めました。1年目は収益が出て寄付ができましたが、2年目は赤字で寄付はできませんでした。この地元の人達にとって憩い場で、桜の名所でもある美しい森のような公園の木が、どんどん伐採されてどうなっていくのだろうかと心配しています。桜の木の寿命は60年といわれ、公園の桜はもうすでにその寿命を超えています。その対処は何もできていません。いま日本の各地で同じような事が起こっていると聞きます。次の世代にこの貴重な自然を残して行かなければ、と考えている全国の方達とも情報交換をしていきたいと思っています。

 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルは、大型アウトドア・フェスティバルと違って4000人規模の小さなフェスティバルです。2年目の体験で、この規模のフェスで収益を上げる事がいかに大変かと言うことを知りました。そこで、今回はクラウド・ファンディング、スポンサー募集と言ったことでチケット以外の収益を目指します。また過去にも多くの方たちのボランティア活動に支えられましたが、今回も多くの方達にボランティアとして協力していただきたいと思っています。最初の年にロゴやTシャツのデザインをやってくれたワークショップ MU!! の眞鍋君が今年のロゴマークをデザインしてくれました。こうしてあの頃の方達が、再び協力してくれるのはすごく嬉しいです。あの頃のお客さんも戻ってきてくれるとありがたいです。

これから順次情報を出していきます。
皆さんのご協力をお願いします。
できたばかりのSNSのフォローもお願いします。

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル
プロデューサー
麻田浩


参考資料

『HOSONO HOUSE』

1973年5月25日に発売された細野晴臣通算1作目のスタジオ・アルバム。レコーディングは稲荷山公園の近くにあるアメリカ村の細野の自宅で行われた。

「ジョンソン基地とハイドパーク展」

狭山市立博物館の過去の展示会のパンフレットより
(開催期間:平成24年11月3日〜平成25年1月14日)

● 一般 1日券:前売12,000円・当日15,000円/2日通し券:20,000円(前売のみ)
● 中学生/高校生/大学生/専門学生 1日券:前売券 6,000円・当日券 7,000円/2日通し券:10,000円(前売のみ)
* 小学生以下無料 *埼玉県在住・在学の高校生は生徒手帳提示で無料

*当日券は入場ゲートで販売してます!
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