1972年、狭山ハイドパークの米軍アメリカンハウスへ
僕が狭山の米軍ハウスにに引っ越したのは1972年だったと思う。確かその前年ににワークショップ MU!! の連中が狭山に移って、アメリカンハウスという当時狭山にあったジョンソン基地の米軍居住地に作られた、一戸建てのかなり大きな家で暮らし始めていた。そこでどんな暮らしをしているのか、またハウスというのはどういうものか知りたくなって彼らを訪ねた。
当時はまだ関越道が開通していなくて車で所沢街道を走っていったのだが、これがすごく遠くてずいぶん遠いところまで来てしまった、というのが狭山の最初の印象だった。
ジェームス・テイラーのアルバムのような雰囲気があった
ところが、彼らの暮らしをみて、なにか都会の暮らしとは違うゆったりとした時間が流れていて、MU!! の連中もそれを楽しんでいたように感じられた。自分もそこに住みたいと思った。当時は良くジェームス・テイラーのアルバムを聞いた。狭山になぜか同じような雰囲気があって、こういうところに住んで音楽がやれたら良いなとも思った。
狭山で僕が借りたハウスはベッドルームが3つもあったので、フォークの後輩のギタリストの安田裕美と押尾光一郎に、一緒に住もうよと誘って3人の共同生活が始まった。当時、僕は外タレの司会兼ツアーマネージャーやレコードのライナーノーツを書いたり、ガッツという音楽雑誌のレコード紹介といろんなことをやっていたのだがソニーからアルバムレコーディングの話が来て、1972年の9月にアメリカのナッシュビルに行ってレコーディングすることになった。当時は石川鷹彦がバックでギターを弾いてくれていたので、二人でナッシュビルに行ってレコーディングした。
その後、石川が忙しくなり安田が僕のバックギタリストをやってくれるようになった。狭山のハウスはかなりの音を出しても大丈夫だったので僕らの練習場所にもなった。押尾は高田馬場にあったピープルという店で働いていて、合間にギターの修理などをしていた。
ーつづくー
1976年トムス・キャビンを設立しデビッド・グリスマン、エリック・アンダーソン、ニューグラス・リバイバル、トム・ウェイツ等を招聘し始め、現在までトーキングヘッズ、B-52’、ラウンジリザーズ、ラモーンズからダン・ヒックス、ジミーウェッブ、キャレキシコまで日本に多くのアーティストを紹介している。
また90年代からNew Music Seminar, SXSWなどの海外フェスで日本人バンドのショーケースJapan Niteをプロデュースし、多くのバンドを海外に紹介している。