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WORKSHOP MU!! が教えてくれたのはアメリカンアートから日本の古き良き文化や骨董

狭山に移り住む前の僕は、音楽は洋楽、車は外国車、ラジオはFENとほとんど外国かぶれ状態だった。僕が狭山に移り住むきっかけを作ってくれたデザイン事務所、ワークショップ MU!! の連中もそうだと思っていた。ところが、彼らと話をしている内に、彼らが日本の文化や古いものに対してすごい知識を持っていることを知った。

所沢や狭山、飯能といったところには、当時はまだ骨董屋さんが多くあった。僕が車を持っていたので、彼らとそういった骨董屋さんや各地の骨董市に一緒にに行くようになった。

WORKSHOP MU!! が、眞鍋君が僕の先生だった

狭山に移って結婚した僕の奥さんも骨董に対する知識があって、日本の古いものに興味のなかった僕も、彼らの影響で興味を持つようになっていった。当時のワークショップ MU!! はあまりデザインの仕事がなくて、骨董屋さんみたいなことをやって生活していたと思う。

僕は彼らに付いて長野の茅野辺に古い時計を仕入れに行ったり、名古屋や常滑でオキュパイド・ジャパンと言われる、戦後日本で外国向けに作られた食器を買い付けに行ったりした。食器といっても高価なものではなく、たぶんアメリカのスーパーなどで売られていただろう安い食器で、デザイン的にはいかにもアメリカで売れそうなシンプルな白い食器だった。そういう売れ残った食器は、昔のりんご箱みたいなのに入って泥に埋もれていて、それを掘り起こして車に積んで帰った。彼らはそれを洗って、東京の骨董屋や内藤ルネさんのお店なんかに卸していたと思う。

また、帰りに名古屋インター近くの覚王山の骨董市に寄ったり、時には京都まで足を伸ばして東寺の市にも行った。見るもの聞くもの初めてのことばかりで、すごく楽しかった。彼らが泊まる所は名古屋だと今の新幹線口の昔の遊郭の近くの安宿であったり、昔の行商の人たちが泊まったような安宿が多かった。いつも僕がキョードー東京の仕事などで泊まっていた一流ホテルとは違い、布団一枚しかない安宿だった。初めての体験だったから別に辛いとなんか思わなかった。近所の日雇の人が食べる飯屋で夕飯や朝飯を食べた。真鍋君にどうしてそういうとこを知ってるの?と聞いたことがある。
「麻田さん、昔の行商人はみんなこうでしたよ。そんなことにお金をかけたら利益なんて出ませんから」と言われて納得したものだ。

連中ほど外国のものから日本のものまでの知識を持った若者はいなかったと思う

僕は、骨董の本をたくさん書いていた料治熊太さんの本でニワカ勉強をして、なんとか彼らのように骨董を見る目を養おうと思ったが、そんなに簡単にはいかなかった。ワークショップ MU!! の連中ほど、外国のものから日本のものまでの知識を持った若者は誰もいなかったと思う。もし彼らに会わなかったら泉鏡花や永井荷風は読まなかったと思うし、浮世絵に興味も持たなかったし、織部を知ることもなかったと思う。

にわか勉強した骨董本

今でも真鍋君は僕の「日本のもの」の見方の先生で、時々展覧会や骨董屋さん巡りに誘ってくれる。良い先生がいるということは素晴らしいことだ。ありがたいことにハイドパーク・フェスのビジュアルも一手に引き受けてくれている。

-つづく-

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