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70年代 表参道セントラル・アパートの文化人が狭山に引っ越してくる

学生時代のバンド仲間、渡辺かおるが狭山に遊びに来てVANとMU!! が繋がる

狭山に引っ越してすぐの1972年頃、学生時代のバンド仲間である渡辺かおるが、時々狭山に遊びに来るようになった。多分、かおるはワークショップMU!! の連中に興味があるのだと思った。それに、かおるは当時すでにVANジャケットに就職してデザインの仕事をしていたので、MU!!に仕事をくれるのではと思ったからだ。案の定かおるは、彼らの仕事をみて、すぐにTシャツのデザインの仕事を頼んでくれた。それと同時に、真鍋くんたちの骨董に関する知識にも驚いたようだ。それからというものは、僕と同じで外国かぶれしていたかおる自身が、日本の骨董にのめり込んでいった。

表参道のデザイン事務所での出会い

渡辺かおるは、多分1960年代終わり頃に、僕を表参道のセントラル・アパートにあったペンシル・ポイントというデザイン事務所に連れて行ってくれた。そこは、イラストレーターの穂積和夫さんとデザイナーの野原三輝がやっていた事務所で、僕は東京で時間があるとよく遊びに行かせてもらうようになった。穂積さんと野原さんは、VANジャケットやメンズクラブなどの雑誌の仕事をやっていた。学生時代の僕らのバンド、モダン・フォーク・カルテットが、よくVANジャケットやメンズクラブのパーティーなどで演奏させてもらっていたので、以前から彼らと顔馴染みだった。

僕が全く知らない言葉が飛び交った会話

そこでそれまで知らなかったデザインや写真関係の知り合いがたくさんできた。
特に車のイラストレーターの熊澤俊彦さんという方は、いい車を持っていて、僕は彼が車を買い替えるタイミングで、それを譲ってもらうようになったほどだ。杉並の自宅に泊めてもらって、当時珍しかったアバルトという車のこととかをいろいろと教えてもらった。その熊澤俊彦さんを通してカメラマンで後にバイク雑誌の編集長になる小野さんやバイクショップのオーナーの大谷さんとも知り合いになった。当時セントラル・アパートにあったディスコボランテというバイクの部品を扱うお店にも連れて行ってもらった。このお店は外国の珍しいバイクの部品を仕入れて通のバイク仲間に売っていた。カメラマンの加納典明さんなんかも来ていたように思う。

オーナーの澤田さんはバイクや車の事に詳しく、熊沢さんや小野さん、大谷さん達と当時としては珍しかった「チェリアーニやフォンタナのブレーキが良い」とか「フォークはやはりチェリアーニのGPだよね」とか僕が全く知らない言葉が飛び交った会話をしていた。後に、僕が好きになったイギリスのグリーブスというバイクも澤田さんが雑誌に書いた記事が発端だった。

狭山での友人の幅が広がる

みんな狭山に移り住みたいと言って僕のハウスを見に来たが、もうその頃はたくさんあったアメリカ村のハウスもほとんど埋まっていて、熊澤さんは府中の方のハウスの移って行った。小野さんは、僕らが「山の手」と呼んでいたハイドパークの近くのハウスを見つけて住むようになった。彼のバイク仲間で写真家の井上さんも近くに越してきた。僕がトムスキャビンのアーチストの交渉でアメリカなどに出張するときに、彼等から「どこそこのバイク屋でこういう部品を買ってきて」と頼まれるようになって、僕のバイク屋巡りが始まった。

こうして狭山での僕の友人達の幅が広がっていった。

-つづく-

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