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ずっとハイドパークに出演して欲しいと思っていたデイヴィッド・リンドレーが亡くなった

デイヴィッド・リンドレー(David Lindley)が亡くなった。

彼に最初にあったのは1973年、今は無いシカゴのクワイエット・ナイトという小さなライブハウスだった。当時彼はジャクソン・ブラウンの2枚目のアルバム『For Everyman』のプロモーションツアーでジャクソンと二人だけでライブハウスを回っていた。

ジャクソンとリンドレーには黒澤明が縁でシカゴで出会った

僕は黒沢久男監督のロード・ムービーのようなテレビ番組『股旅USA』という番組でNYをめざして撮影中だった。シカゴで1日オフがあったので、ライブハウスのスケジュールを見たら、ジャクソンとデイヴィッドのライブがあることを見つけた。ジャクソンはデビューアルバムがすごく良かったし、彼が見れるならと共演者の渡辺篤史と篠ひろ子を誘って3人で見に行った。

このツアーはジャクソンの歌はもとより、多くの人にデイヴィッド・リンドレーというミュージシャンの多彩な演奏能力と、彼のハーモニーヴォーカルの素晴らしさを印象付けたツアーだったと思う。

シカゴのライブハウスに2人の若い日本人が絶世の東洋美女を連れていたので、僕らは多分相当目立っていたと思う。美女に目が無いジャクソンが終演後に話しかけてきた。二人は大の黒澤明ファンで、黒澤さんの映画がロスに来るとラブレア東宝という映画館に見に行っていたそうだ。その息子が撮影しているということにも興味を持ったようだ。

僕らは彼らのホテルにまで行っていろいろ話をした。渡辺篤史が僕が歌を歌っていると言うと、ジャクソンが聴きたがったので、当時良く歌っていたピーター・ラファージという人が書いた『Ballard of Ira Heys』という歌をその場で歌った。僕が英語の、しかもそんなに有名でない『Ira Heys』を歌ったのは彼らを驚かせた。その数日後の確かフィラデルフィアのメインポイントのライブのMCで、そのことを喋ってくれた。これは後になってライブのブートレグが出て、友人が教えてくれた。シカゴの出会い以来、二人とは何度も会って親交を深めることになった。

西武線に乗って、狭山のハウスにやって来た

僕が関わったデイヴィッド・リンドレーの最初の来日は、大阪の南港でのフェスティバルだった。多分80年代だったと思うが、当時一緒にプレイしていたテリー・リードと二人のデュオで呼んだ。その時出演していた久保田麻琴の沖縄音楽に興味を示した彼に、沖縄の音楽のコンピレーションのテープを送ってあげた。リンドレーはそれをライ・クーダーに教えて、そこから彼らの沖縄狂いが始まった。

その後 El Rayo-X、ハニー・ナッソーやウォーリー・イングラムとのデュオ、ソロと何度となく彼のツアーをやった。ツアーでレコーディングした『Live In Japan』も発売した。ジャクソンのジャパンツアーの合間に、ジャクソンに「デイヴィッドの誕生日会を日本の家庭料理で祝ってあげたい」と言われて、「それじゃあ家に来れば?家庭料理作っとくから」と言ったら、二人と家族全員が西武線に乗って狭山の家まで来た。

また、僕もアメリカへ行った時に何度もクレアモントのリンドレー家に行って、食事をご馳走になった。彼の家の近くのフォークロー・センターという楽器屋さんで、まだ子供だったベン・ハーパー(経営者の孫なので)を紹介されたこともある。

また会おうGompachi(彼の変名で白井権八からきてるらしい)

僕にとってデイヴィッド・リンドレーは他の誰よりも古くからの友人で、誰よりも多くのツアーをやったアーチストだ。トパンガ渓谷のブルーグラス・フェスのバンジョー・コンテストで5回優勝してその後は出場を断られたり、ヘンリー・カイザーとのマダガスカル録音、ジャクソンのライブでフィナーレのファルセットの歌声、勝新太郎の座頭市のモノマネ、先の尖ったエナメルの靴やサイケデリックな柄のシャツ。今、彼との思い出が走馬灯のように僕の頭を回ってる。

本当に素晴らしいミュージシャンを失った。それともう一度日本に行きたいと言っていたのに実現できなかった。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルで演奏して欲しいって思っていた。残念だ。今はゆっくりお休みくださいとしか言えない。

さよならデイヴィッド、また会おうGompachi(*)。

(*)彼の変名。江戸時代の武士、白井権八からきてるらしい。ちなみにジャクソンの出版社はスワローターンミュージック、燕返し出版。

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