ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズのマイク・シーガー来日ツアーの司会とツアマネに指名される
狭山に移り住んだ頃(1970年頃)はどんな仕事もやっていた。
雑誌ガッツのレコード評の連載、シンガーソングライターのライナーノーツを書いたり、キョードー東京や労音の外タレの司会件ツアーマネージャーなどをやりながら、時々自分でも歌っていた。
中でも外タレ(当時は外国のミュージシャンをそう呼んでいた)関係の仕事は後のトムス・キャビンにつながることになるのだが、最初にやったのがマイクとアリス・シーガーの労音のツアーだった。
当時音楽鑑賞団体というのがあって、労音・音協などといった全国にネットワークを持っていた大きな組織だった。特に労音は良心的な値段で素晴らしいアーティストのツアーをやっていた。もちろん日本のアーティスト(歌謡曲なども含めて)の全国規模のツアーを多くやっていたが、時々外タレ、それも僕らにとってはなかなか見られないアーチストを招聘して、全国ツアーもやっていた。1970年にその労音からで電話がきて、マイクとアリス・シーガーのツアーの司会をやってくれないかということだった。
マイク・シーガーは1967年にアメリカに行った時、ロスのアッシュ・グローブでニュー・ロスト・シティ・ランブラーズを見たのだが、その時に知り合った。多分、日本から来た若者が自分達の音楽を聴きに来るなんて、彼らにとっては驚きだったんだろうと思う。その年のニューポート・フォーク・フェスティバルでも再会して話をした。多分そのことを覚えていてくれて、マイクが僕を推薦してくれたのだと思う。
日本で初めてのアメリカンフォークについてのワークショップを企画開催
PS : 小森谷くんが撮ってくれたこの写真は、マイクと相談してワークショップをしようよってやった時のもの。日本で初めてのワークショップだったと思う。ニッポン放送の協力で、スタジオでやらせてもらった。マイクがいろいろな楽器を弾いてその奏方とかを説明したのだが、ところどころ聞いたことのない単語があって、通訳するのは難しかったけど、お客さんたちは食い入るようにマイクのプレイを聞いていた。ニッポン放送の協力なしにはできなかったから、当時の島田 ディレクターには本当に感謝している。
次回は、ちょっと遡って1967年のニューポート・フォーク・フェスティバルに行った時の話をしたい。
-つづく-
1976年トムス・キャビンを設立しデビッド・グリスマン、エリック・アンダーソン、ニューグラス・リバイバル、トム・ウェイツ等を招聘し始め、現在までトーキングヘッズ、B-52’、ラウンジリザーズ、ラモーンズからダン・ヒックス、ジミーウェッブ、キャレキシコまで日本に多くのアーティストを紹介している。
また90年代からNew Music Seminar, SXSWなどの海外フェスで日本人バンドのショーケースJapan Niteをプロデュースし、多くのバンドを海外に紹介している。