|

1974年、狭山 鵜ノ木はヒッピー村と呼ばれていた

狭山市鵜ノ木の米軍基地のハウジングエリアに、ワークショップMU!! に続いて僕、それから小坂忠、細野晴臣と言ったミュージシャン関係の若者が、次々と移り住むようになった。

アメリカ村と呼ばれていたこのエリアは、長髪の得体の知れない若者たちが集まっているという事で地元の大人達は警戒し、子どもたちには近づくことを禁止していたと、後からここで生まれ育った友人たちから聞いた。長髪で派手な出立ちの若者たちの自由すぎるコミュニティだったので、無理もないことだった。地元の人たちは僕らが住んでいたエリアをヒッピー部落など呼んでいたそうだ。大人になった当時の子どもたちは僕の自転車仲間で、今は稲荷山公園(ハイドパーク)の朝の散歩仲間になって、あの時代アメリカ村に住んでいたミュージシャンのフェスを、いつか稲荷山公園でできないかという夢を持っていた。

当時はまだ、ハイドパークにはアメリカ軍将校たちが住んでいた。そこから下って行くと、僕らの住んだ鵜ノ木の兵隊用のハウスジングエリアで、まだアメリカ人も住んでいた。現在の稲荷山公園駅の向こうは米軍のジョンソン基地で、踏切より先にはMP(ミリタリー・ポリス)がいて、日本人は許可なく入ることはできなかった。でも、唯一7月4日(July 4th、独立記念日)だけは基地が解放される日だった。その日は、アメリカのステーツ・フェアみたいにいろんな催し物が出ていて、僕らアメリカ村の住民みんなで出かけて行った。日本円をドルに変えてもらって、それでハンバーガーを食べたりゲームに参加したりした。

そこには憧れのアメリカの大衆文化があった

特にアメリカを感じたのは、『ダンクタンク』っていうアメリカでは遊園地やお祭り会場などに昔からあるゲームを初めて見た時だ。小さな水槽の上に椅子を設置し、その横の的にボールを投げて当たったら、椅子が外れて、座っている子が水槽にドボンと落ちるという荒っぽいゲームを、ハイスクールの女の子たちが楽しそうにやっていた。厚木基地や座間キャンプのお祭りでもやっていたそうだ。

そして、広場ではおそらく軍人のカントリーバンドが演奏し、ウエスタン・ルックのアメリカ人がスクエア・ダンスを踊ってた。本当にここが日本なんだろうかと思うくらいアメリカ的な光景だった。その時の写真を、細野君の大学時代の友人、野上君が写真に撮っていて彼の写真集にも載っている。貴重な記録だ。

もちろん、ハイドパークにもMPがいて、厳重に出入りのチェックをしていた。駐車場はもちろんアメ車だらけだった。しかしジョンソン基地の横田への移動が正式に決まって、線路の向こうのジョンソン基地はなくなり、ハイドパークの将校たちも兵隊たちも徐々にいなくなって行った。1974、5年のことだったと思う。

-つづく-

SHARE :

関連記事: columns